すずききよしの音楽日記(Vol,31

〔矢沢寛さんを偲ぶ会〕

94日 東京山手線の新大久保駅から程近い「労音会館」で、この春亡くなった

音楽評論家の「矢沢寛さんを偲ぶ会」が催されました。

 労音会館に入ると、植田事務局長を始め、沢山の知った方々が参加しておられ、

矢沢さんの交流の幅の広さと、人脈の豊富さに驚くほどでした。

 「奥の部屋にみどりさんが、いてはりますよ」と、案内され、矢沢さんの奥さん、

見どり夫人と会いました。

「遠くから、態々来てくれたの?有難う!」と、見どり夫人、「ごめんね。長い事ご無沙

汰して。」「そんな事、こちらこそ」そして、ステージに飾ってある矢沢寛さんの写真の前で、黙祷してから、小声で「般若心経」を上げました。

 会場には、函館の佐藤美津雄元事務局長を始め、歌手のサミー高岡(高岡良樹)氏や、

佐藤光政氏、上条恒彦氏、作曲家・ピアニストの、杉本憲一氏、フォークシンガーの宮沢勝之氏、北海道のシンガーソング・獣医の森田正治氏、音楽評論家やレコード販売会社の社長さんとか、200人以上の皆さんが参加され、会場浜人になりました。

 司会者は「うたごえ喫茶・ともしび」のリーダーで、実行委員会のあいさつの挨拶の後、「偲ぶ会」と言うより、「偲ぶコンサート」が始まりました。

最初は、フォークシンガー宮沢勝之さんの、「矢沢さんから、助言や励ましがなかったら、現在の自分はないのです」感謝の言葉を述べ「陽気に生きよう。この人生を」何度もコールしながら元気よく歌いました。これを皮切りに、矢沢さんと関わりの深かった音楽家が

次々と挨拶や、思い出や、歌や演奏を矢沢さんの笑顔の写真に、語りかけ歌いかけていました。

 植田事務局長が、「すずきさん次ですよ」といきなり言ったのは、上条恒彦さんの「ざわわざわわ」の歌が終わりかけていたのでビックリ、丁度、手洗いに入ったばかり、慌てて出てきました。ステージに出るなり、お客さんが「ドッ」と沸いたのは、司会者が「すずきさんは只今、おトイレで・・・」と弁解した模様でした?

シャンソニエの高岡良樹さん、佐藤光政さんの日本歌曲、そして今やミュージカルスターの上条恒彦さんという、一流のプロシンガー達の熱演の後、おおとりを勤めさせて頂いて、しかも矢沢見どりさんに繋ぐ大役、強心臓のきよちゃんも緊張気味でした。

「矢沢寛さんと呼ぶより、私はヤッパリ、昔呼んでたように、保っちゃンと呼びます。保っちゃんは、『すずききよしは異色の作曲家である。彼は脚で書く作曲家である』と、いろんな本に紹介して呉れたけど、保っちゃんこそ、机の上で好き勝手な事を書いている評論家でなく、何処までも出かけていって、若いアーチスト達が勇気を持って育っていくように、見守り、励ましてきた『足で書く音楽評論家だった』と呼びます。保っちゃんは、沢山の、うたごえ運動やフォーク運動の活動家達を育てましたね。」と挨拶して、「保ッちゃんが、笑い転げて喜んだ歌を歌います。

この歌は政治的な問題や社会的な問題には関係ない歌で、若し政党の名前などが聴こえたような気がしたら、医学的に問題があると思いますので、一度、耳鼻咽喉科の診断を受けて頂きたいと思います。『庭の小梅』と言う可愛らしい歌を歌います。」

歌い始めると、大爆笑また大爆笑、収まったところで、「保ッちゃんと知り合った頃、作った歌で、戦争に狩り出される兵士の母の歌です。『どうか人を殺す鉄砲を捨てて、お母さんの部屋に戻っていらっしゃい』という歌です。私はリズムアンドブルースで歌ってますが、もともとシャンソンとして作った歌で、この歌を矢沢見どりさんに捧げます」と、

『母の願い』を歌いました。

この時の『母の願い』の歌について、元函館労音の事務局長・佐藤美津雄さんから、次のようなお便りが届きました。

「矢沢さんを偲ぶ会」から1ケ月になりますが、あの日の感動、大トリにふさわしい

すずきさんの絶唱は今もなお消えません。上条氏は勿論、サミー高岡氏、佐藤光政氏、

そしてその他、献奏されたすべての人々が、私を含む参加者全員の記憶から消されてしまったのではないでしょうか。

あの日から、私は会う人毎に『ピート・シーガーをすずきさんに見た、聞いた』と語っています。そして、聞く機会を作って欲しい』と、訴えています。」

と、本当に身に余るお言葉を贈って下さいました。

あのようなベテラン・シンガー達のトリを勤めさせて戴いただけでも光栄なのに、こんな素晴らしいお言葉を戴いて、本当に身が引き締まる重いです。

矢沢保ッちゃんが、「きよっちゃん、それは一寸褒められすぎと違うかい?」と苦笑してるかも知れませんが・・・・。